『もしもの愛』鑑賞メモ:前半の退屈さと終盤の解放感
『もしもの愛』を最後まで観て、前半と中盤の進み方に退屈さを感じた一方で、終盤についても当初思っていたより複雑な印象が残りました。特に、貧富の対比が単なる格差の話ではなく、別の形で開かれかけてはいたものの、最終的に閉じられていくように見えた点が気になりました。
この作品は、クシシュトフ・キェシロフスキとクシシュトフ・ピェシェヴィチによる『デカローグ』第10話を想起させる位置づけにあります。
もともと『デカローグ』全10話を各国の監督が長編として再解釈するプロジェクトの一環として企画されたもので、第10話の直接的な翻案ではありませんが、十戒の第10戒「隣人のものを欲してはならない」と深く結びついています。映画の冒頭にこの言葉が掲げられ、エンドクレジットで「デカローグ10を記憶して」「デカローグ10に捧ぐ」と献辞が入っているのはそのためです。
イ・チャンドン監督は、現代の資本主義社会において「他人の人生をむやみに羨んだり切望したりせずに生きていけるのか」という問いを掘り下げるために、この戒めとキェシロフスキの作品を念頭に置いたと語っています。
前半から中盤にかけての退屈さ
前半のおよそ2/3は、ドキュメンタリー風に進行する分、間が延びて退屈に感じられました。チョン・ドヨンの表情は生き生きとしているものの、身体を使った演技が少なく、全体として静かに過ぎていく印象がありました。
中盤の1/3では、労働組合やリストラをめぐる状況が具体的に描かれます。しかし、日本で育った世代にとっては、どこか古いテーマのようにも思え、ここでも再び退屈さが先に立ってしまいました。韓国社会のその時期の空気を丁寧に描こうとしているのは伝わりますが、物語として新鮮に感じられるかと問われると、過去に何度か見た構図と重なってしまう部分もあります。
終盤の1/3について
最後まで見ると、終盤の1/3は「解放されていく」というより、むしろ開きかけた空気が潰されていく過程に見えました。金持ち側の男性が、4人が解放されるきっかけを一つずつ潰していくように感じられたのです。
特に印象に残ったのは、チョン・ドヨンが海に全裸で泳ぎ始めた場面です。あのタイミングで男は浜辺で待っているか、家に戻るか、どちらかにしておけばよかったと思います。介入したことで、せっかく開きかけていた空気がまた閉じられてしまったように感じました。
映画史上最も長いと言われてもおかしくないトイレの場面は、どこか融合的で良かったです。単に長尺の演出というより、それまでの重い話から少しずつ抜けていく時間の感じ方を、身体のレベルで共有させているようにも見えました。ただ、それも最終的には先の介入によって帳消しにされてしまった印象があります。
「遊べる資材」という読み方
片方が金持ち、片方が貧乏という構図は、この映画を見て一つ突破口が開けたように思いました。どういうことかというと、1人が金持ちで遊べる資材があって、周りの人たちが楽しく遊びさえすれば、それでいいのだということです。カラオケ資材であり、藪であり、広いトイレであり……。
この捉え方は、貧富の対比を「格差の告発」としてではなく、「遊べる資材を持っている人がいることの意味」として読み直しているように思います。ただ、終盤を通して見ると、その資材を持っている側の人物が、結果としてその可能性を潰してしまったようにも感じられました。第10戒の「隣人のものを欲してはならない」という視点から見ると、この「遊べる資材」をめぐる欲望と、それを持ちながらも介入してしまう行為の間に、作品の問いが重なっているのかもしれません。
前半の退屈さと、終盤で開きかけては潰されていく空気の落差が、この作品の印象を強く残す要因になっているように感じました。